読書の記録~「貧困襲来」「反貧困」
〈貧困〉は自己責任じゃない!
湯浅誠さんの著作「貧困襲来」「反貧困」を読んで、まさに実感されることである。
最近マスコミでもようやく話題にされるようになってきた「格差」の問題。
でも、その「格差」という言葉は、現在の世の中を上手く言い得ているようで、実は、その裏に潜む大きな問題を見過ごさせることにもなっています。
その事について、筆者の湯浅さんは、本書で次のように言います。
「たとえば革新派の議員が『努力しても報われない社会はおかしいでしょ。格差は是正されるべきです』と言います。すると自民党の議員は『いや格差はあってもいい。だって努力しても報われない社会はおかしいでしょう』といいます。これじゃ何を論議しているのか分からなくなります。」
格差という言葉だけが社会的に焦点にあがり、このような堂々巡りの議論が進む中で忘れ去られている本当に焦点にのばらせなければならない大事な論点。それが「貧困」の問題なのである。
けど、多くの人たちは「日本に貧困なんてあるの?」と思うだろう。
けれど、現在の日本には恐ろしい勢いで、「貧困」が広がっているのである。
「まさか…?」と思いの方は、ぜひ本書を読まれて欲しい。
一般的に年配の方々は、ワーキング・プアの若者たちを見て次のように評価する。
「若いんだから死ぬ気になれば何だってできるはず、考え方が甘いんだよ」
特に団塊の世代の方々、果たして本書を読んだあとに、また同じように、いえるだろうか?
先日NHKで放送されていた「セーフティネット・クライシス~日本の社会保障制度が危ない~」をご覧になられ大きなショックを受けられた方々も多いだろう。
そこで多くの方々が何となく疑問に感じたことは、そのように人々を追い込む何らかの大きな得体の知れない物の正体は何なのか?ということだろう。
現在の日本社会には、貧困へと一般の市民を落とし込んでいく強力なメカニズムが存在する。
湯浅さんは、「貧困とは、生きてゆくのに不可欠な『溜(た)め』を奪われた状態に陥ること」といっている。その「溜め」を奪っていくメカニズムの正体を、これまでの筆者が関わってきた具体的な例を引きながら、わかりやすく説明してくれる。
教育が保障されていないこと、非正規職への就業者には企業福祉が適用されぬこと、公的な支援が受けられぬこと、家族の支えが得られぬこと、そして、「自己責任」「自助努力」の名の下に「うまくいかないのはぜんぶ自分のせい」と納得させられてしまう社会の風潮。
制度や政策も人を貧困へと追いこんでゆくメカニズムを見ようともせず、努力が足りないと切り捨ててている。
北九州での餓死者の存在から明るみになった最後のライフラインである生活保護の申請を抑えこむ「水際作戦」。「福祉に頼らず自立しろ」と、生活の安全保障を外し「決死の綱渡り」を強いる再チャレンジ政策など。これらは、すべて貧困者をさらに痛めつけていく。
さらには、生活保護費は国民年金に対して「高すぎる」という年金生活者怒りの声が世論をつくり、最終的には生活保護費が切り下げられていく。事の本質は本当にそこにあるのだろうか。このことがさらに貧困に陥りそうな人間を貧困の世界に陥れていっていることに多くの人が気づかないでいる。
本来は、そうでなく、年金生活者の生活レベルのアップが臨まれる。年金制度の問題にこそメスが入れられるべきでないのか?「社会全体の底上げをどう考えていくべきか」が焦点に据えられるべきであろう。
先に挙げた番組「セーフティネット・クライシス」でも人が五重の排除を受けて「貧困」に陥っていくことが具体的な事例から分かった。五重の排除とは、教育課程からの排除、企業福祉からの排除、家族福祉からの排除、公的福祉からの排除、自分自身からの排除である。
筆者は次のようにいう。
「貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。
人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる、「強い社会」を目指すべきである。(p209)」
まさにそのような社会をどのように模索すべきかを全国民が考えるときに来た。
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