レイヤー化する世界

no-bu

2014年04月01日 09:39

近代が終わりをつげ、その後に待ち受けている世界がどのような世界になるのか?ということに関する書籍は少なくない。
近代という時代を支えてきた“国民国家”と“民主主義”などといったカテゴリー等がインターネットの普及とともに崩れはじめ、何かしか実態がつかめない新しい世界システムが勃興しつつある今このときに、そのシステムがどのようなものであるのか、その世界での生き方とはどうあるべきかを描いているのが、「レイヤー化する世界~テクノロジーとの共犯関係が始まる~」佐々木俊尚著、NHK出版新書である。

情報技術の革新は、メディアや産業の構造を根底から変え、超国籍企業を生んで労働と富のグローバル化を加速し、国ぐにの力を殺いだ。
ITを基盤としたシステムそのものが権力化するなか、個人もまた、生きかたの変容を迫られている。
これから来る世界はいったいどのようなものなのか。
そこでわれわれはどう生きていけばいいのか。
斯界の第一人者が、テクノロジーの文明史を踏まえて未来の社会像を鮮明に描き出す。





筆者が示す新たな世界システムの変化とは何か?
それを筆者なりに一言で示すと「レイヤー化」というキーワードとなる。

レイヤーとは何か?
Wikipediaには

レイヤー (Layer) とは、グラフィックソフトウェアなどに搭載されている、画像をセル画のように重ねて使うことができる機能のことである。
レイヤとも呼ばれる。
日本語では層、重ね合わせの意味である。
例えば、今2枚のガラスがあったとして、1枚目に「あ」、2枚目に「い」と描いたとしよう。
この「あ」と描かれたガラスの上のちょうど良い位置に「い」と描かれたガラスを置けば、「あい」という文字列が完成する。
このときのそれぞれのガラスがレイヤーである。
このとき、一枚目のみに「あい」と描いた場合、例えば「あ」を大きく描きたい、「い」をもっと右に移動したい、といった場合に各文字を消さなければならない。
しかし、レイヤーを使えばそれぞれ「あ」レイヤーを拡大するだけ、「い」レイヤーを右に移動するだけで済む。
このような単純な例では レイヤーを使うことにより受けられる恩恵は比較的小さいが、複数枚の写真をレイヤーとして重ねるような場合においては、それぞれのレイヤーを個別に編集可能であることが大きな意味を持つようになる。


簡単にいうと、20世紀という時代を支えてきた“国民国家”という概念は、人々の世界をその所属する国家という枠組みをもとに「ウチ」と「ソト」を分割してきたし、その枠組みと分割こそが人々のアイデンティティを形作る基盤となっていた。
歴史的に言えば、国民国家というものが誕生し、覇権争いが進む中で、“帝国主義”や“植民地化”という支配と被支配の関係が構築され、搾取する側の国家の内部(ウチ)が豊かになっていくことに反比例するように、搾取される側の(ソト)は富を収奪されていくという構図の中で近代という時代は成立していた。
しかしながら、インターネットの開発と爆発的な展開によって、現在はこれまでの国民国家という枠組みに代わる新たな(脱国家的な)“場”が生まれ、そしてその“場”が意図的に”超国籍企業“によって提供されることで、新しい世界がグローバルなレベルでのレイヤー構造に組み換わっていくというのだ。

そして、これまでの縦割りによるアイデンティティ形成のシステムは崩れ去り、レイヤー化によって、多くの層に個人が切り分けられてしまう。
そして、そのようなレイヤーの集合体が個人となる時代がもうそこにきているという。

これまでの人と人の関係は、化粧箱のなかで切り分けられているケーキとケーキの関係でした。
それぞれが独立し、分断されているけれども、でも同じ化粧箱のなかに束ねられているという連帯感みたいなものがあったのです。
でも<場>の中では、私たちひとりひとりもレイヤーによってスライスされています。
たとえば私という人間は、佐々木俊尚というひとりの独立した個人だけれども、一方でさまざまなレイヤーも持っています。
日本人という国籍のレイヤー
ジャーナリストという職業のレイヤー
兵庫県西脇市という出身地のレイヤー
愛知県立岡崎高校を卒業したという出身校のレイヤー
和食が好きで、料理をつくるのが日課であるという食の好みのレイヤー
登山とランニングを愛好しているという趣味のレイヤー
そういう無数のレイヤーを積み重ねていった結果として、私という個人がある。
ジャーナリストは日本にもいますが、そのほかのレイヤーも私とすべて同じというジャーナリストはたぶんいません。
同じように岡崎高校出身者は何千人もいますが、その他のレイヤーも私と同じという同窓生は存在しません。
だから私は、レイヤーが積み重なったひとつの集合体であるとも言えるのです。
(中略)積み重なったレイヤーの上から、強く絞った光を当てると、光は幾層をもつらぬき、そこにプリズムを通したような光の帯が見えてくるでしょう。
私という個人は、この光のようなものかもしれません。
(中略)でもこのプリズムの光の帯は、単なる可視光線にすぎないから、レイヤーの他の部分ともなめらかにつながっていくことができる。
(中略)ソーシャルメディアのようなものが進化し、普及してきて、そういう同じレイヤーの人たちを探すのはいまとても簡単になりました。
自分は無数のレイヤーにスライスされて、そしてそれらのレイヤーで横にすぐつながることのできる関係、それこそが<場>における人間関係となっていきます。
そして、そのようなレイヤーごとの人間関係の積み重ねによって、私という個人はここにあり、社会に存在できるということなのです。
レイヤーによってスライスされて自分という個人は切り分けられてしまっているけれども、切り分けられているからこそ、それぞれのレイヤーで他の人たちとはつながりやすくなるということなのです。(p210~231)


では、このようなテクノロジーがつくる“場”の革命は、これまでの支配と被支配の中の搾取のシステムから多くの人を開放することになるのか?
そのことについて著書はつぎのように述べている。

テクノロジーがつくる<場>の革命は、ウチとソトの境界を破壊し、国民国家と、その上に築かれた民主主義という二十世紀のシステムを壊していくでしょう。
しかしその先は、昔から人びとが願っているような「皆が自由になる世界」「抑圧がない平和な世界」がやってくるわけではありません。
ウチの幸せが消滅し、<場>へと世界が移行していくと、そこでやはり<場>を運営する側とされる側という新しい支配関係が生まれます。(p174)


この場を意図的に作り出し人々に提供しているのが、Apple、Google、Facebookなどの超国籍企業である。
そうであるならば、これらの超国籍企業こそが私たちを支配すると思われるであろうが、この場を生み出している超国籍企業さえも場の世界の中で常に新しい波に乗らなければ消えていく存在になりかねない。

相変わらずまとめる能力に乏しいので、長い説明、紹介になってしまっているが、結論として筆者が言いたいことは何か。

こうした新しいシステムへの対応、戦略を筆者はどう考えてるか。

①レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分をとらえること
②と共犯しながら生きていくということ。」P250



おそらく、いま訪れようとしている新しいシステムの中では、自分がレイヤー化されていけばいくほど、自分が何者かということが重層化、多元化し、人はアイデンティティ・クライシス陥る人は増えるかもしれないけれど、見方を変えれば、固定的な自己ではない、その時々、状況に応じて多元的に変化する自在なアイデンティティのあり方が新しいライフスタイルづくりとともに生み出されていくことを逆に楽しることになるのでは…ということを言いたいのであろう。

しかし、そういう生き方は、場や場を生み出す超国籍企業に振り回されない、新しい支配する側に搾取されない賢く強い自己の存在が前提となるのではなろうか。
そうでなければ、筆者がいうような“共犯関係”など成立するわけもない。
そういう観点でいうと、そのような強い個人の作り方に関しては、あまり多くが語られていないように思う。
そのあたりは、今後の筆者の著作に期待したいと思う。


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