2014年04月01日 09:39
情報技術の革新は、メディアや産業の構造を根底から変え、超国籍企業を生んで労働と富のグローバル化を加速し、国ぐにの力を殺いだ。
ITを基盤としたシステムそのものが権力化するなか、個人もまた、生きかたの変容を迫られている。
これから来る世界はいったいどのようなものなのか。
そこでわれわれはどう生きていけばいいのか。
斯界の第一人者が、テクノロジーの文明史を踏まえて未来の社会像を鮮明に描き出す。
レイヤー (Layer) とは、グラフィックソフトウェアなどに搭載されている、画像をセル画のように重ねて使うことができる機能のことである。
レイヤとも呼ばれる。
日本語では層、重ね合わせの意味である。
例えば、今2枚のガラスがあったとして、1枚目に「あ」、2枚目に「い」と描いたとしよう。
この「あ」と描かれたガラスの上のちょうど良い位置に「い」と描かれたガラスを置けば、「あい」という文字列が完成する。
このときのそれぞれのガラスがレイヤーである。
このとき、一枚目のみに「あい」と描いた場合、例えば「あ」を大きく描きたい、「い」をもっと右に移動したい、といった場合に各文字を消さなければならない。
しかし、レイヤーを使えばそれぞれ「あ」レイヤーを拡大するだけ、「い」レイヤーを右に移動するだけで済む。
このような単純な例では レイヤーを使うことにより受けられる恩恵は比較的小さいが、複数枚の写真をレイヤーとして重ねるような場合においては、それぞれのレイヤーを個別に編集可能であることが大きな意味を持つようになる。
これまでの人と人の関係は、化粧箱のなかで切り分けられているケーキとケーキの関係でした。
それぞれが独立し、分断されているけれども、でも同じ化粧箱のなかに束ねられているという連帯感みたいなものがあったのです。
でも<場>の中では、私たちひとりひとりもレイヤーによってスライスされています。
たとえば私という人間は、佐々木俊尚というひとりの独立した個人だけれども、一方でさまざまなレイヤーも持っています。
日本人という国籍のレイヤー
ジャーナリストという職業のレイヤー
兵庫県西脇市という出身地のレイヤー
愛知県立岡崎高校を卒業したという出身校のレイヤー
和食が好きで、料理をつくるのが日課であるという食の好みのレイヤー
登山とランニングを愛好しているという趣味のレイヤー
そういう無数のレイヤーを積み重ねていった結果として、私という個人がある。
ジャーナリストは日本にもいますが、そのほかのレイヤーも私とすべて同じというジャーナリストはたぶんいません。
同じように岡崎高校出身者は何千人もいますが、その他のレイヤーも私と同じという同窓生は存在しません。
だから私は、レイヤーが積み重なったひとつの集合体であるとも言えるのです。
(中略)積み重なったレイヤーの上から、強く絞った光を当てると、光は幾層をもつらぬき、そこにプリズムを通したような光の帯が見えてくるでしょう。
私という個人は、この光のようなものかもしれません。
(中略)でもこのプリズムの光の帯は、単なる可視光線にすぎないから、レイヤーの他の部分ともなめらかにつながっていくことができる。
(中略)ソーシャルメディアのようなものが進化し、普及してきて、そういう同じレイヤーの人たちを探すのはいまとても簡単になりました。
自分は無数のレイヤーにスライスされて、そしてそれらのレイヤーで横にすぐつながることのできる関係、それこそが<場>における人間関係となっていきます。
そして、そのようなレイヤーごとの人間関係の積み重ねによって、私という個人はここにあり、社会に存在できるということなのです。
レイヤーによってスライスされて自分という個人は切り分けられてしまっているけれども、切り分けられているからこそ、それぞれのレイヤーで他の人たちとはつながりやすくなるということなのです。(p210~231)
テクノロジーがつくる<場>の革命は、ウチとソトの境界を破壊し、国民国家と、その上に築かれた民主主義という二十世紀のシステムを壊していくでしょう。
しかしその先は、昔から人びとが願っているような「皆が自由になる世界」「抑圧がない平和な世界」がやってくるわけではありません。
ウチの幸せが消滅し、<場>へと世界が移行していくと、そこでやはり<場>を運営する側とされる側という新しい支配関係が生まれます。(p174)
①レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分をとらえること
②と共犯しながら生きていくということ。」P250