綴り字のシーズン
周りでは、「あまり意味が分からなかった…」という人が多かったのですが…。
ダメもとで借りてみました。
「
綴り字のシーズン」
「ストーリー」
ナウマン家の中心には、積極的に家事をこなし息子とクラシック音楽を奏でる良き夫であり父であると自負する宗教学者のソールがいた。
幼い娘イライザは父の期待を一身に集める優秀な兄アーロンに引け目を感じていたが、スペリング・コンテストで才能を開花させて以来、その立場は逆転する。
ユダヤ神秘主義に傾倒し文字や言葉に神と対話する特別な力があると信じるソールは、全米大会へと勝ち進んで行く娘の能力に夢中になっていく。
一方で、家族は崩壊の坂を転がりはじめる。
ユダヤ教神秘主義に執着する父、万引きを繰り返す弁護士の母、異なる宗教に救いを見出す兄。
家族が危機に直面したイライザがとった大胆な行動とは?
一口に言って、父親がユダヤ神秘主義に傾倒する宗教学者であること、妻が改宗させられた事実、そして、その反動からか、おかしな行動をとるようになったこと、兄は父への反抗からか、仏教系の宗教にはまってしまうことなどからすると、見る人は、哲学的なところや宗教の部分でこの作品を理解しようとするでしょうね。
私も、そういう視点から最初はこの作品を捉えようと考えていました。
でも、よく考えてみると違うんですね。
この作品、家族のあり方について深く考えさせられる作品なんですね。
当たり前のことですけど、家族を構成するのは、人格と思想をもった一人ひとりの独立した人間です。
しかし、家族という集団のまとまりを大事にするあまり、自分の人格に仮面をかぶせ、無理をすると何が起こるのか?ということ…。
このような関係を取り結ぶ家族のあり方って、日本に多くあるんじゃないですかね。
そういう家族で、ある日、適当なガス抜きができなくなったときに、爆発=事件が起こるのです。
自分の信仰を変えてまで、愛する人のために頑張ろうとした妻…。
どこかで、自分をおさえて無理をしていたんでしょう。
父親の愛情と期待にこたえようと頑張る息子、その愛情が少しそれた時にふと自分とは何か考えたんでしょう。
そして、兄だけに過多に注がれる愛情の中で、寂しさを感じて過ごしていたイライザ。ある日を境に自分にその愛情が…。
ある意味嬉しく待ち望んでいたこと、でも、そのことで家族が少しずつおかしくなっていくことに、不安を感じ、それをどうにかしたいと思うようになっていきます。
基本的に、人間は愛する人から(集中的な)愛を本能的に求めます。
その愛が、得られるためならば、自分の大事にしているある部分も捨てて、よい妻を演じる努力をするでしょう。
そして、多くの子どもは、親の愛を本能的に求めます。
だから親が完璧を望めば、子供は親の期待に沿い、愛を注いでもらうために、「いい子」を演じる努力をするでしょう。
この場合、その努力は「無意識」のうちに行われるので、相手はもちろん、その本人も気がつきません。
それがうまくいっているうちは、外から見たら理想的な家族でいることができたわけです。
が…、実際のところ、「夫の無意識なコントロールに支配された人格としての妻」、「親の無意識なコントロールに支配された人格としての子ども」となってしまっていくのです。
その矛盾が吹き出して、家族がおかしくなっていったときに、不思議な力を持つ娘イライザの機転によって、崩壊の危機の原因となっていた父は、あることにようやく気がつくわけですね。
そうやって、ようやく家族の一人ひとりは、家族という集団の中でのお互いを思いやりながら、同時に一人の独立した人格としての自分を追求し始めることになるのだろうと考えました。
いや~、この作品を観る前は、「どうだろうな~?」と半信半疑でいましたが、見終わってみると、結構奥が深い作品なのかもしれませんね。
公式サイト→http://www.foxjapan.com/movies/beeseason/
「総合評価 ★★★★☆ 90点」
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