運動靴と赤い金魚

no-bu

2012年09月21日 19:38

イラン映画を紹介したいと思います。

運動靴と赤い金魚



本作は、97年作のイラン映画で、99年度アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされるなど、世界で高い評価を受けた作品です。
この作品をしったのは、別の作品を鑑賞していたときの作品紹介でした。
正直、最初は、「靴なくしただけで、どんな風にそこから引っ張っていくのかな~」と思いましたが、いやいや、すばらしい作品ではないですか。
多くを語らない、演出しない、そうして、あの素敵な子どもたちの表情、動きから色々なものを訴えかけているすばらしい作品です。


「ストーリー」

少年アリは修理してもらったばかりの、妹ザーラの靴を買い物の途中でうっかり失くしてしまう。
親にも言えず、兄の靴一足しかない兄妹は、まず妹がアリの運動靴を履いて学校に行き、下校途中で履き替えて次にアリが学校に行くことにする。
そのためアリはどんなに走っても遅刻してしまい、先生に目をつけられてしまうのだった。
ある日ザーラは学校で自分の靴を履いている下級生を見つける。
靴を返してもらおうと兄妹でその女の子の家まで出かけるが、彼女の父親が目が見えないことを知って言い出せなくなる。
そんな時、小学生のマラソン大会が行われることになる。
なんと3等の賞品は運動靴。
アリはどうしても出場したいと先生に頼み込み、許しを得る。
いよいよマラソン大会の当日。
アリは妹のために3等になろうと必死に走るのだった。


イランでは、政治的なテーマを掲げて映画をつくることができないらしい。
なぜなら、検閲がかなり厳しいからだ。
そのように規制が激しいために、子供を主人公にした映画がつくられることが多いという。

この作品で訴えてられていることは、何か?それは、「忘れてしまった何かを思い出して欲しい」ということなのではないかと思う。

まず、一つ目は「他人を思いやる優しさ」。

作品名にもあるように、靴を中心にして話は転化されていくが、よく見ると、作品の中に登場する子どもたちの靴もそれぞれ、彼らの生活を映し出している。
新しい靴、破れそうな靴、可愛い靴、なんの飾りもない靴。
足下を見ると、はいている靴からその子の生活が創造できる。
ザーラの家も裕福な家ではない。
けど、彼女は、だからといって他人のものをうらやんだり、他人をさしおいてでも…という考え方を決して持たない。
ザーラは、兄が修理の帰りになくした自分の靴を履いている女の子を見つけ、兄のアリと一緒にその家まで出かけるが、結局、何も言えずにそのまま帰ってきてしまう。

なぜか?

それは、その女の子の父親が目の見えない人で、自分たちと同じレベルの生活をしていることを感じ取ったからである。
何て優しい子じゃないですか。
貧しいからこそ、他人の痛みや苦しさがよくわかって、自分たちが我慢しようと思ってしまう。そんな世界がかつての日本にもあったような気がする。

兄のアリに関しても同じ事がいえる。
私が見た予告編では、最後のマラソンの場面、一生懸命走る彼の姿を映し出して、兄妹愛をことさらに強調して、「これはとてもすてきな感動作です」と紹介している。

そんな単純なことではないと思う。

それが、この作品が伝えたい二つ目のテーマではないかと思う。
この作品を批評して誰かが言っていたが、アリと一緒に走っていた少年たちとアリとでは、走る目的が違うということがここでは大切なのだ。
彼らは、アリと違って、最初からいい靴を履いている。
そして、彼らの周りには、必死に我が子の雄姿を逃さず収めようと、カメラ、ビデオを回す親たちが居る。
その他の子どもたちは、「とにかく一等賞になることを目標にはしっているのだ」。
その後に、何があるのかも分からずに…。
だから、汚い手を使ってでも、自分の前を走っている人間を引っ張って転ばせてでも、一等賞をつかみたいのだ。
それは、だた親や教師や周囲の人間から賞賛されるために…。
しかし、彼らには、その後に何も残らない。
ちょうど、それは今の日本の大人や子どもたちの姿に重なって見えるのは、自分だけだろうか?

そのように色々と考えながら見ると、もっと違う側面からこの作品を捉えることができるのかもしれない。


「総合評価 ★★★★☆ 90点」

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