読書「記憶/物語」岡 真理、岩波書店
2012年02月09日
今回は、長くなるが、私のつくった”物語”を読んで欲しい。
少年期に受けた暴力的な仕打ちで、心に深いトラウマを負った人がいる。
その人は、その仕打ちによるトラウマがもとで、接触障害(対人恐怖症)を煩っている。
そのため、青年となったいまでも、集団に属し、その中で、新しいことを学び、新しい発見をし、新しい経験をし、その過程で新しい自分を発見し、自分を研いていく経験をしたいと強く願っても、過去のトラウマがフラッシュ・バックし、それが身体症状というかたちで現象化し、彼の意志や行動を阻んでしまう。
自分の意志では、”前に進みたい”、”チャレンジしたい”と”強く”思うが、自分の記憶は自分の意志とは関係なく、何の前触れもなく自己に降りかかり、自分の心と身体を縛り付け、捻りつけ、痛めつける。
そんな自分の心の中の相反する作用…、コントロールできないその現象…、そこへの虚しさ、無力さは、”前に進み出したいと強く願う彼”をさらに痛み付け、それが新たな心の病となり、さらに彼を苦しめる。
これは、かつて同級生に、思い出したくもないような酷い仕打ち=暴力を受け、悩んでいる青年の話である。そんな彼の状況を、私は、医師により彼の現状を説明する1枚の書類をもとに、同僚に語った。
しかし、そこで語られる、つまり、彼に起こった過去そして現在の出来事を、私が言葉によって”物語った”として、どこまでリアリティをもって、伝えることができたのだろうか。
出来事を言葉でもって物語るとき、私は言葉の持つ限界を痛感する。
言葉を道具として日々使っている仕事柄、そのことを日々感じるし、加えて、出来事を物語ることによって、そこからこぼれ落ちていく多くのモノの存在を無視することはできないし、こぼれ落とす私のちからのなさを情けなく思う。
さらに、こうした私の力量不足にあわせ、診断書に書かれた言葉が持つ脆弱性の認識の欠如とそこに表現された言葉の向こうにある彼の抱える苦しみや痛みを理解しようとすることができない者…。
さらには、規則というモノによって、彼の現在を紋切り型に理解してしまう者もそこにいる。
一枚の用紙に、たった二行で書かれた彼の病名…。
そして、わずか十行の説明…。
そして、その事に対する私の語り…。
彼ら(私たち)は、そこからこぼれ落ちているモノの存在を全く意識していない。
意識していないばかりか、意図的にこぼれ落とそうとしているかのようにも見える。
言葉で語られる世界の向こう側にある彼の現状や苦しみ、思い、希望、夢を汲み取れていない。(もしかすると汲み取ろうともしてない。)
そのように汲み取ろうという作業=勝手な妄想であり、想像であり、そんな妄想や想像をもとに彼をサポートすることは、現状では埒外であり、今までの前例に照らし合わせても規則で決められた範疇を越えてしまうと語る。
そうした前例は、作りたくない。(それこそが、規則を形骸化させる前例となってしまうから)
確かに、そうした”例外”は、その後の判断や処置をその都度、その都度、検討するという作業を派生的に生み出す。
それは、非常にやっかいな作業である。
だから、できるだけ、例外は作りたくない。
いったい学校は誰のモノだろう。
この仕事をしながら、この問いが何度も頭を駆けめぐる。
そして、そう問わなければならない現状に苛立ち、それを力づくで乗り越えることができずにいる自分の無力さに辟易する。
言葉の持つ限界。
記憶をという出来事を物語る行為の脆弱さ。
そのことを私たちは、強く認識し、そこからできるだけこぼれ落ちていくモノをどのようにすくい取り、くみ上げることができるのかという事を考えなければならない。
例え、それが不可能だとしても、その限界を認識しながら生きることが大切である。
「記憶/物語」岡 真理(岩波書店、2000年)
本書は、言葉はすべてのものを語りつくすことができるのか?
語られることがすべてなのか?
という事について言及する。
出来事が言葉によって”物語”となった時点で、その語りの隙間から零れ落ちていくモノの存在…。
そうした事実を本当に人はどれだけ認識し、出来事を物語っているのだろうか?
“物語が持つその不完全性”をどう認識し直すか、このことこそが正に大切であるということを述べている。
「語られないこと-語り得ないこと-は、出来事として存在しないということになる。
しかし、言葉とはまずもって、そんなにも万能なものなのだろうか。
なにごとかを語ろうとするとき-それが、何か根源的な体験であればあるほど-私たちがまず、感ぜずにはおれないのは、むしろ、言語というものの徹底的な不自由さのほうではないだろうか。」
「出来事が私たちの手持ちの言葉の輪郭にあわせて切りとられるとき、私たちは、言葉で語られた出来事が、出来事そのものよりもどこか矮小化されてしまったような、どこかずれているような、そんなふうに感じはしないだろうか」(p7)
言葉の持つ脆弱さ、人が物語る行為の不完全さとは、いったい具体的にはどんなことだろうか。
岡はつぎのような例を提示する。
「心的外傷を負った者が、時としてフラッシュ・バックという現象に見舞われるということをわたしは知識として知っていたが、そのことが意味する暴力性を、私は自分自身のその経験から、わずかにではあるが想像してみることができる。
それは単に、過去に被った暴力的な出来事が思い出されるということではない。もちろん、それだけでも十分に不愉快な、つらいことであるには違いないけれど、フラッシュ・バックとはそれ以上に、記憶に媒介された暴力的な出来事が、今、まさに現在形で生起している、そのような出来事自身が、そのとき心とからだでかんじたあらゆる感情、感覚とともに投げ出され、その暴力にさらされるという経験であるのではないだろうか。」
「かつて日本軍の『慰安婦』とされたある女性の体験の聞き書きを読んだことがある。『慰安所』からの逃亡をはかった別の女性が日本兵に殺され、見せしめに焼かれたのだという。そのため今でもその女性は、肉が焼かれる匂いを嗅ぐと、そのときの出来事を思い出すので、それ以来、焼き肉は食べられないのだという話が紹介されていた。」
「彼女が『思い出す』というとき、具体的には何を思い出しているのだろうか。『慰安婦』の仲間が日本兵に殺されて焼かれたという出来事、としか、そこでは語られてはいない。だが、本当にそうだろうか。彼女は本当にそれしか語ってはいないのだろうか?無論、明示的な言葉ではそうだ。しかし、肉が焼ける匂いによってある出来事の記憶が自分に回帰しているのだと彼女が言っているとしたら、できれば忘れ去ってしまいたい暴力的な出来事が、自分の意志にかかわらず、甦ってくるのだと言っているのだとしたら、だとすれば彼女は、50年前、自分が被った一連の暴力的な出来事を、記憶の甦りとともに、そのとき生きているのではないだろうか。再びその五感でもって生々しく、その出来事を体験しているのではないだろうか。肉の焼ける匂いが彼女に想起させるものとはおそらく、過去に友が殺されたという痛ましい事実だけではない、彼女自身がさらされ続けた暴力的な出来事のすべてが、50年という歳月によっても『過去』として馴致することができない生々しい暴力として今なお、現在形で、彼女の身に生起し続けているのではないだろうか。そのように考えることは、わたしの深読みのし過ぎだろうか。語られてもいないことを、わたしは勝手に読みとろうとしているのだろうか。それは、わたしの過剰な想像、あるいは妄想なのだろうか。」(p5~7)
私は、過剰な想像でもなければ、妄想でもないと強く思う。
岡が指摘するように、「出来事はつねに過去形で表現される-それは、人が出来事を『過去』に馴致する-飼い慣らす-ことではないか」と思う。
彼に、時を限定することなく、降りかかるフラッシュ・バックという暴力をどのように理解すればよいか。
岡は次のように言う。
「人と出来事の関係において、出来事を想起する、思い出すというとき、人が主体たり得ず、むしろ、回帰する出来事の圧倒的な力に対して徹底的に無力であるのに、なぜ、出来事を語るときは人が主体になれるなどと考えうるのだろうかと思わずにはいられないからである。」(p8~9)
この岡の指摘は、まさに冒頭で述べた、彼と今でも彼を襲い続ける過去の暴力的出来事との関係性を示している。
本書の表現でいうならば、“記憶”というモノの本質は、そのモノ自体が主体となるという点にある。
記憶の所有は、それを経験した本人にあるのではない。
まさに、フラッシュバックのように、意図しない、制御不能なものであって、本人ではなく”記憶そのものが主体になるようなもの”である。
この事は、記憶というものを、本人であったとしても正確に表現できない事実、さらには、”その記憶=自己の過去”から自由になれるわけではなく、唐突に前触れもなくその記憶は蘇ってくる制御不可能な存在であるという事実を言い表している。
さらにいえば、戦争という暴力の中における”慰安婦問題”という暴力的な記憶が言葉の孕む不確実性、不可能性により「言葉で言い尽くせない」わけであるから、当然ながら、その記憶の本質を他者と共有することは不可能となる。
では、なぜ、言葉の持つ限界を認識しながらも、人は出来事を物語るのか?
そして、人はなぜ、出来事を物語る事に焚きつけられるのか?
それは、”物語”とする作業自体が、”出来事を語りつくすことのできないという人間の無力さ”を拡散させる、紛らわす作用を持つからに他ならない。
自己の、さらには他者の出来事の主体となる、それを所有する=その出来事に意味づけを与えたいという欲求を満たす効果を物語る行為は持っているからである。
このような言葉や映像によって出来事を物語る飽くなき人間の欲深さ。
筆者は、その欲深さをスピルバーグの作品(「シンドラーのリスト」、「プライベート・ライアン」)を批判することで提示している。
さらには、そうした作品を素晴らしいと評価し絶賛することこそが、そうした欲深さ=罪であり、語るものだけでなく、その語りを絶賛する者たちこそが共犯者であると警鐘をならす。
「スピルバーグの描く戦場シーンは、言葉で説明できるもの、炸裂する砲弾、四肢をもぎとられる兵士、舞い上がる粉塵、……等々、再現できるものしか再現されてはいない。
説明できない出来事、抑圧された記憶は、登場しない。
あたかも、そのようなものは存在しないかのように。出来事の現実<リアリティ>とは、まさにリアルに再現される<現実>からこぼれおちるところにあるのではないか、という問いはスピルバーグには存在しない。」(p27)
「『プライベート・ライアン』は、自らの戦略的な利害のために国民に犠牲を強いる国家主義に対抗しているように見せながら、アメリカの国民主義を称揚している。
だが、そのヒューマニズムに体現されるアメリカの国民主義の称揚は、不条理な死を死なざるを得なかった者たちの無数の死、共有可能な集団的な記憶からは排除される出来事を忘却、否認することではじめて可能になっていることを忘れてはならない。」(p53)
人間存在の限界の一線がそこに垣間見える。
あとがきに筆者は次のように語る。
「この物語を終えるにあたって、濫喩でしかない<言葉>と暴力的に名づけられた<もの>が、幸福な一致を奏でているのではないかということが気懸かりだ。
テクストはささくれだっているだろうか。」
我々は、言葉で出来事を物語るその限界と、我々の飽くなき欲望が持つ暴力性に立ち返り、いまいちど、出来事を物語る行為について考えなければならない。
当然ながら、このように本書の内容を”物語っている”私自身も……。
少年期に受けた暴力的な仕打ちで、心に深いトラウマを負った人がいる。
その人は、その仕打ちによるトラウマがもとで、接触障害(対人恐怖症)を煩っている。
そのため、青年となったいまでも、集団に属し、その中で、新しいことを学び、新しい発見をし、新しい経験をし、その過程で新しい自分を発見し、自分を研いていく経験をしたいと強く願っても、過去のトラウマがフラッシュ・バックし、それが身体症状というかたちで現象化し、彼の意志や行動を阻んでしまう。
自分の意志では、”前に進みたい”、”チャレンジしたい”と”強く”思うが、自分の記憶は自分の意志とは関係なく、何の前触れもなく自己に降りかかり、自分の心と身体を縛り付け、捻りつけ、痛めつける。
そんな自分の心の中の相反する作用…、コントロールできないその現象…、そこへの虚しさ、無力さは、”前に進み出したいと強く願う彼”をさらに痛み付け、それが新たな心の病となり、さらに彼を苦しめる。
これは、かつて同級生に、思い出したくもないような酷い仕打ち=暴力を受け、悩んでいる青年の話である。そんな彼の状況を、私は、医師により彼の現状を説明する1枚の書類をもとに、同僚に語った。
しかし、そこで語られる、つまり、彼に起こった過去そして現在の出来事を、私が言葉によって”物語った”として、どこまでリアリティをもって、伝えることができたのだろうか。
出来事を言葉でもって物語るとき、私は言葉の持つ限界を痛感する。
言葉を道具として日々使っている仕事柄、そのことを日々感じるし、加えて、出来事を物語ることによって、そこからこぼれ落ちていく多くのモノの存在を無視することはできないし、こぼれ落とす私のちからのなさを情けなく思う。
さらに、こうした私の力量不足にあわせ、診断書に書かれた言葉が持つ脆弱性の認識の欠如とそこに表現された言葉の向こうにある彼の抱える苦しみや痛みを理解しようとすることができない者…。
さらには、規則というモノによって、彼の現在を紋切り型に理解してしまう者もそこにいる。
一枚の用紙に、たった二行で書かれた彼の病名…。
そして、わずか十行の説明…。
そして、その事に対する私の語り…。
彼ら(私たち)は、そこからこぼれ落ちているモノの存在を全く意識していない。
意識していないばかりか、意図的にこぼれ落とそうとしているかのようにも見える。
言葉で語られる世界の向こう側にある彼の現状や苦しみ、思い、希望、夢を汲み取れていない。(もしかすると汲み取ろうともしてない。)
そのように汲み取ろうという作業=勝手な妄想であり、想像であり、そんな妄想や想像をもとに彼をサポートすることは、現状では埒外であり、今までの前例に照らし合わせても規則で決められた範疇を越えてしまうと語る。
そうした前例は、作りたくない。(それこそが、規則を形骸化させる前例となってしまうから)
確かに、そうした”例外”は、その後の判断や処置をその都度、その都度、検討するという作業を派生的に生み出す。
それは、非常にやっかいな作業である。
だから、できるだけ、例外は作りたくない。
いったい学校は誰のモノだろう。
この仕事をしながら、この問いが何度も頭を駆けめぐる。
そして、そう問わなければならない現状に苛立ち、それを力づくで乗り越えることができずにいる自分の無力さに辟易する。
言葉の持つ限界。
記憶をという出来事を物語る行為の脆弱さ。
そのことを私たちは、強く認識し、そこからできるだけこぼれ落ちていくモノをどのようにすくい取り、くみ上げることができるのかという事を考えなければならない。
例え、それが不可能だとしても、その限界を認識しながら生きることが大切である。

本書は、言葉はすべてのものを語りつくすことができるのか?
語られることがすべてなのか?
という事について言及する。
出来事が言葉によって”物語”となった時点で、その語りの隙間から零れ落ちていくモノの存在…。
そうした事実を本当に人はどれだけ認識し、出来事を物語っているのだろうか?
“物語が持つその不完全性”をどう認識し直すか、このことこそが正に大切であるということを述べている。
「語られないこと-語り得ないこと-は、出来事として存在しないということになる。
しかし、言葉とはまずもって、そんなにも万能なものなのだろうか。
なにごとかを語ろうとするとき-それが、何か根源的な体験であればあるほど-私たちがまず、感ぜずにはおれないのは、むしろ、言語というものの徹底的な不自由さのほうではないだろうか。」
「出来事が私たちの手持ちの言葉の輪郭にあわせて切りとられるとき、私たちは、言葉で語られた出来事が、出来事そのものよりもどこか矮小化されてしまったような、どこかずれているような、そんなふうに感じはしないだろうか」(p7)
言葉の持つ脆弱さ、人が物語る行為の不完全さとは、いったい具体的にはどんなことだろうか。
岡はつぎのような例を提示する。
「心的外傷を負った者が、時としてフラッシュ・バックという現象に見舞われるということをわたしは知識として知っていたが、そのことが意味する暴力性を、私は自分自身のその経験から、わずかにではあるが想像してみることができる。
それは単に、過去に被った暴力的な出来事が思い出されるということではない。もちろん、それだけでも十分に不愉快な、つらいことであるには違いないけれど、フラッシュ・バックとはそれ以上に、記憶に媒介された暴力的な出来事が、今、まさに現在形で生起している、そのような出来事自身が、そのとき心とからだでかんじたあらゆる感情、感覚とともに投げ出され、その暴力にさらされるという経験であるのではないだろうか。」
「かつて日本軍の『慰安婦』とされたある女性の体験の聞き書きを読んだことがある。『慰安所』からの逃亡をはかった別の女性が日本兵に殺され、見せしめに焼かれたのだという。そのため今でもその女性は、肉が焼かれる匂いを嗅ぐと、そのときの出来事を思い出すので、それ以来、焼き肉は食べられないのだという話が紹介されていた。」
「彼女が『思い出す』というとき、具体的には何を思い出しているのだろうか。『慰安婦』の仲間が日本兵に殺されて焼かれたという出来事、としか、そこでは語られてはいない。だが、本当にそうだろうか。彼女は本当にそれしか語ってはいないのだろうか?無論、明示的な言葉ではそうだ。しかし、肉が焼ける匂いによってある出来事の記憶が自分に回帰しているのだと彼女が言っているとしたら、できれば忘れ去ってしまいたい暴力的な出来事が、自分の意志にかかわらず、甦ってくるのだと言っているのだとしたら、だとすれば彼女は、50年前、自分が被った一連の暴力的な出来事を、記憶の甦りとともに、そのとき生きているのではないだろうか。再びその五感でもって生々しく、その出来事を体験しているのではないだろうか。肉の焼ける匂いが彼女に想起させるものとはおそらく、過去に友が殺されたという痛ましい事実だけではない、彼女自身がさらされ続けた暴力的な出来事のすべてが、50年という歳月によっても『過去』として馴致することができない生々しい暴力として今なお、現在形で、彼女の身に生起し続けているのではないだろうか。そのように考えることは、わたしの深読みのし過ぎだろうか。語られてもいないことを、わたしは勝手に読みとろうとしているのだろうか。それは、わたしの過剰な想像、あるいは妄想なのだろうか。」(p5~7)
私は、過剰な想像でもなければ、妄想でもないと強く思う。
岡が指摘するように、「出来事はつねに過去形で表現される-それは、人が出来事を『過去』に馴致する-飼い慣らす-ことではないか」と思う。
彼に、時を限定することなく、降りかかるフラッシュ・バックという暴力をどのように理解すればよいか。
岡は次のように言う。
「人と出来事の関係において、出来事を想起する、思い出すというとき、人が主体たり得ず、むしろ、回帰する出来事の圧倒的な力に対して徹底的に無力であるのに、なぜ、出来事を語るときは人が主体になれるなどと考えうるのだろうかと思わずにはいられないからである。」(p8~9)
この岡の指摘は、まさに冒頭で述べた、彼と今でも彼を襲い続ける過去の暴力的出来事との関係性を示している。
本書の表現でいうならば、“記憶”というモノの本質は、そのモノ自体が主体となるという点にある。
記憶の所有は、それを経験した本人にあるのではない。
まさに、フラッシュバックのように、意図しない、制御不能なものであって、本人ではなく”記憶そのものが主体になるようなもの”である。
この事は、記憶というものを、本人であったとしても正確に表現できない事実、さらには、”その記憶=自己の過去”から自由になれるわけではなく、唐突に前触れもなくその記憶は蘇ってくる制御不可能な存在であるという事実を言い表している。
さらにいえば、戦争という暴力の中における”慰安婦問題”という暴力的な記憶が言葉の孕む不確実性、不可能性により「言葉で言い尽くせない」わけであるから、当然ながら、その記憶の本質を他者と共有することは不可能となる。
では、なぜ、言葉の持つ限界を認識しながらも、人は出来事を物語るのか?
そして、人はなぜ、出来事を物語る事に焚きつけられるのか?
それは、”物語”とする作業自体が、”出来事を語りつくすことのできないという人間の無力さ”を拡散させる、紛らわす作用を持つからに他ならない。
自己の、さらには他者の出来事の主体となる、それを所有する=その出来事に意味づけを与えたいという欲求を満たす効果を物語る行為は持っているからである。
このような言葉や映像によって出来事を物語る飽くなき人間の欲深さ。
筆者は、その欲深さをスピルバーグの作品(「シンドラーのリスト」、「プライベート・ライアン」)を批判することで提示している。
さらには、そうした作品を素晴らしいと評価し絶賛することこそが、そうした欲深さ=罪であり、語るものだけでなく、その語りを絶賛する者たちこそが共犯者であると警鐘をならす。
「スピルバーグの描く戦場シーンは、言葉で説明できるもの、炸裂する砲弾、四肢をもぎとられる兵士、舞い上がる粉塵、……等々、再現できるものしか再現されてはいない。
説明できない出来事、抑圧された記憶は、登場しない。
あたかも、そのようなものは存在しないかのように。出来事の現実<リアリティ>とは、まさにリアルに再現される<現実>からこぼれおちるところにあるのではないか、という問いはスピルバーグには存在しない。」(p27)
「『プライベート・ライアン』は、自らの戦略的な利害のために国民に犠牲を強いる国家主義に対抗しているように見せながら、アメリカの国民主義を称揚している。
だが、そのヒューマニズムに体現されるアメリカの国民主義の称揚は、不条理な死を死なざるを得なかった者たちの無数の死、共有可能な集団的な記憶からは排除される出来事を忘却、否認することではじめて可能になっていることを忘れてはならない。」(p53)
人間存在の限界の一線がそこに垣間見える。
あとがきに筆者は次のように語る。
「この物語を終えるにあたって、濫喩でしかない<言葉>と暴力的に名づけられた<もの>が、幸福な一致を奏でているのではないかということが気懸かりだ。
テクストはささくれだっているだろうか。」
我々は、言葉で出来事を物語るその限界と、我々の飽くなき欲望が持つ暴力性に立ち返り、いまいちど、出来事を物語る行為について考えなければならない。
当然ながら、このように本書の内容を”物語っている”私自身も……。
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Posted by no-bu at 23:02│Comments(0)
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